自然農法と肥料

最近、有機農業カルチャースクールの講師をしたりする機会もあり、様々な有機栽培についてお話を聞いたり、見学したりすることが多くありました。
有機栽培といっても幅広くあり、二つとして同じ方法がないです。JASの有機認定をとっているかどうかもありますが、有機認定をとっていなくても有機肥料を活用して栽培されている農家もたくさんあります。有機肥料も堆肥主体だったり、ぼかしを活用したり、微生物資材を多用したりと幅が広いです。また、最近は有機栽培だけではなく、自然農法をしている農家も多くなってきています。
自然農法といってもこれもまた幅が広く、不耕起無施肥からある程度耕起する農業までいろいろあります。でも、肥料が専攻の身としては自然農法には否定的な立場です。一言で言うと、「別に肥料をやってもいいじゃないか、耕したっていいじゃないか」というのが私の主張です。
現代の日本は飽食の時代であり、食べ物はそこら中にあふれています。しかし、人類の歴史をひもとくと、畑を耕し肥料をやることによって生産力が増え、これだけの世界の人口を養うことができるようになってきたわけです。農機具が鉄器になり収量が増え、メソポタミアやエジプトでは川の氾濫で肥料が供給されてきました。
今でも多くの発展途上国では肥料が足りないため食料の生産性が低い状態です。そんななかで、肥料をやらず生産量が低いレベルになっているのは、豊かな日本の傲慢であるような気がしてなりません。
基本的には農業、施肥は物質収支の考え方で成り立っています。収穫物を持ち出しているわけですので、その分の元素を補給しなければ必ず足りなくなります。もちろん、雨や大気から補給できる元素もありますが、物質収支がマイナスでしたら何時かは必ず不足します。だから、私は「奇跡の○○」ものは信用できません。無肥料栽培であっても継続的に収量が確保できている場合、かならず何らかの形で補給されているわけであり、「常識外れ」であっても「奇跡」はありえないです。イエスキリストでもなんでも、無から有は生まれませんので。
もっとも、自然栽培であっても結構落ち葉や草を耕地へ投入している場合もあります。草や落ち葉は立派な肥料です。肥料はなんぞやというところから始めなければ自然栽培の是非を問うこともできないわけですが。
 
愛知県田原市に野田村というところがあります。江戸時代にここで肥料を巡って紛争がありました。隣の赤羽根村と山の入会地の所有権を巡って争ったというものですが、これは入会地の草をとりあっていたのです。肥料の供給が限られていた江戸時代では草や柴であっても非常に重要な資源であり、流血の事態になるほどだったわけです。かってはそこまで求められていた肥料を否定するのはどうも納得がいかないところです。
参考ページ:http://roadsite.road.jp/history/soudou/soudou-tahara.html
もちろん、限りある資源である肥料を過剰使用したり浪費することは好ましくないのは言うまでもありませんが、現代日本では循環資源となる廃棄物がたくさんあります。こういった資源を有効活用することは環境保全にもつながりますし、コストも抑えることができます。
ま、こういう主張は当社の仕事が肥料を作っている・・という一面もありますが、それ以前に農学部の血が騒ぐという面も無きにしも非ずです。また、肥料を使って立派に育てた作物は自然栽培の作物とくらべて遜色ないどころか、美味しいと思いますし。

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